「ああ、ダサイったらありゃしない。なんでOLさんたちって、あんなメイクしてるのかしら」「ホント、しかもみんな判で押したような同じ顔なんだから、がつくりくるよね」これは、今からざつと15年ほど前、日本一カッコいい雑誌を作るんだ― と意気に燃えていた若き日の私と美容記事編集者との会話です。毎号毎号、「センスの良いメイク」を私たちは伝えているつもりだったのに、これが一向に大衆には広まらない。それも、化粧品は「これがイチ押し」と雑誌に書けばパーッと流行るというのに、その使い方である化粧法がどうもうまく伝わらないのです。女のコたちは、雑誌に掲載された新色はどんどん買うから、流行に鈍感なわけではない。いえ、むしろひとたび何かが流行りだすと一斉にみんなが同じメイクをしだすのですから、かなり敏感であるといえます。ですが、その「一斉に流行るメイク」が妙に泥臭いのです。「メイクのテクニックがヘタなのかしら」当時の私は、そう思っていました。ところがそれから何年か経つうちに、どうも「センスの良いメイク」というものに疑間が出てきたのです。海外のおしゃれな雑誌を読んでセンスを勉強すればするほど、それは日本の女のコたちが求めているものとは違うのではないか、と。
ニキビ跡って本当に治りにくいです
その思いが決定的になったきっかけは、ニキビ跡ケアの登場でした。1999年、ヘレナ・ルビンスタイン社のニキビ跡を隠す方法氏へのインタヴューで、ヤマンバの写真を見せたところ、彼はこう叫んだのです。「素晴らしい―」ヤマンバについての説明を求められた私は、こう答えました。「ルーツはスーパーモデルのナオミのメイクではないかしら。それを安室奈美恵が真似をして、それをまたコギャルたちが真似をして、そうするうちに、小麦色の肌はガングロに、茶髪は白髪に、淡いベージュロ紅は真っ白に、と、どんどんエスカレートしたみたい」と。それを聞いたニキビ跡を隠す方法氏は、大興奮。「まるでラテンのマリアじゃないか― すごいクリエイティヴィテイだ」ラテンのマリアとは、西洋から伝えられたマリア像が、南米で現地風の顔にアレンジされていつたことを指しているのですが、グローバルスタンダードのこの時代に、渋谷でニキビ跡ケアがローカルに発展したことはすごいことであり、しかもそれは、アニメやマンガ同様、西洋人には考えもつかないような日本独特のものだというのです。日本の女のコたちのメイクが泥臭いのは、センスがないのではなく、彼女たちが無意識のうちに日本風にアレンジしているからではないだろうか。私は化粧品会社のプランナーとして4年、美容ライターとして18年、化粧の流行の送り手と受け手の間をつなぐ仕事をしてきました。そうして、いつもいつも「これ、ちよつとダサイかも」と思うぐらいのメイクのほうが、大衆にウケるのを見てきたのです。これは、大衆はおしゃれのレベルが低いから、などという一言では、どうも片付けられそうにはありません。明治維新から約140年。西洋化粧を取り入れつつ、西洋の流行とはいつも少しズレていた日本のメイク。そのズレにこそ、日本の女のコたちが生きてきた社会や文化が映し出されているのではないでしょうか。この本は、モードとしてのメイク史ではなく、リアルな日本のメイク史です。この中には、きっと5年前、10年前の懐かしいあなたの顔もあるでしょう。また、あなたのお姉さんやお母さん、おばあさんやひいおばあさんの顔も見つけられることと思います。普通の日本の女のコたちが、何を思い、どんなメイクをしてきたか、時代を追って見ていくとともに、私たちにとってメイクとは何なのかを考えてみたいと思います
私はその化粧品を使った美顔の講習会に参加し、技術も少しずつ習得していきました。今思い出しても、その時のテクニックはとても良いものだと思います。技術を習得しながら、多くの知人に助けられ、やがて美容材料会社に化粧品を卸すようになり、美容室にも出入りができるようになりました。朝8時に美容材料の会社へ出社し、営業マンの車に乗せてもらつて、1日8軒.10軒の美容室を回るのです。「今度、この化粧品を使った美顔の講習会があります。ぜひ受けて下さい」と、美顔の講習会への参加をお願いし、受講する人を集めました。3ヵ月の講習が始まると、1カ月に1回、東京から先生がいらつしやつて講習会をおこないます。その後、次の講習会までは美容室に出向いて練習や試験をするのが私の役目です。美容室での練習は、美容室が閉店した後の午後8時とか9時から始まり、終わるのは夜中の‐2時を過ぎることもよくありました。l日16時間労働という状態は、23歳から結婚する30歳まで続きました。
能力はさほどなくても、人の倍働けば、どうにかなることをこの時に学びました。講習が終わると美容室に化粧品を置いてもらい、美容師がお客様への美顔をするようになるのですが、1回目の美顔は私がさせてもらいます。私も美容室へ行って、お客様を呼んでもらつてカウンセリングをしながら、美顔を行うのです。そしてその時にお客様にキープ用の化粧品を買って頂き、その後も美顔に通うというシステムでした。私は「お客様の肌の状態はこうですから、このようにしたほうがいいですね」とアドバイスしたり、食事指導や生活指導などをしながら美顔の施術をしたりしているうちに、急に23歳で美顔の大先生のように扱われるようになりました。化粧品の成分などの知識を加え、 一人ひとりのお客様に対応できるようにしました。薬剤師になろうと思っていたことが関係しているのかもしれません。もちろん、美顔の技術もかなり熱心に勉強しました。
池坊での4年間が過ぎた後、私は中学から家庭教師について勉強していた自分の語学力を試したいと思って、カリフォルニア大学ヘイヮード校に、英語の勉強をするために留学しました。「カリフォルニアの青空」は気持ちがよくて素晴らしかった― 私はすっかり気に入つてしまい、4?5年はここに住もうと考え、TOEFLを受けて正規留学しようとしましたが、親に怒られて残念ながら半年で帰国。しかし、ここで英語の勉強をしたことは、のちに米国で最先端の脱毛技術や美顔を学ぼうとした時に役に立ちました。また米国にはスーツを素敵に着こなしている男性が多く、帰国した時に日本のビジネスマンが貧相に見えて、「もっと日本の男性を格好良くしたい」と思ったことを覚えています。この思いは後に「ダンディハウス」のオープンに繋がっていきます。79年に帰国し、親からは田舎に帰るように言われましたが、まだ結婚をしたくありませんでした。自立して仕事をしたくて、「いや、まだ帰らない。私は仕事をする」と強く決意をし、宣言しましたoところが、帰国したのが十月で、その時期に就職するにはどうしたらいいのか全く分かりません。仕事の当てがあつた訳でもありません。そのような時に、知り合いから「化粧品会社があるから、そこの化粧品でも売ったらどう?」と声を掛けてもらいました。
何もすることがなかつたので、すぐに「やらせて頂きます」とその化粧品を売ることに決めました。その化粧品会社は特殊な美顔法を持っており、美容師を相手に講習会を開き、技術を教えながら化粧品を売っていました。その化粧品会社は、化粧品も3種類だけ。関西には支社がなかつたので、「じやあ、あなたに代理店みたいなことをやらせてあげるから」と言われ、「はい」と返事をしたら、それから1週間もしないうちに、マンシヨンに箱詰めの化粧品が山積みになって届き、びつくりしました。「送られてきたからには、もう仕方がない」。そこから仕事がスタートしました。とにかく化粧品を売らなくてはならないのですが、どう売ればいいのか分かりません。いつも行く喫茶店で常連客の人達に話してみると、「うちのおばさんを紹介するよ」「勤め先の社長の奥さんを紹介してあげる」と言ってくれて、1個ずつ売れていきました。商売などしたこともない田舎の母もずいぶんたくさん知り合いに売ってくれました。その時に、化粧品の売り上げを書いた母の小さな手帳は、私の宝物になっています。
私は鹿児島県種子島で生まれました。父は製糖工場に勤務。私は一人っ子でした。私の祖父は物知りで田舎の旦那さんでした。焼酎と読書を好み、地域の人達に尊敬されていて、分からないことは何でも祖父が教えてくれました。幼い私に、昔訪れた京都や奈良の話をよくしてくれたのも祖父です。その影響で、私は小さい頃から京都に憧れていました。また、私の母は若い頃に働きたいと望んでいましたが、祖父が許してくれなかったそうです。そんなこともあって、私は社会に出て働くようにと言われながら育ちました。応援団長だった中高時代私は小さい頃から活発な女の子で、運動も勉強も得意な方でした。中学と高校ではテニス部に所属し、高校ではキャプテンも務め、インターハイの地区予選の決勝まで進出しました。
運動会では、中学の時も高校の時も応援団長でした。75年、高校卒業後の進学先には憧れの京都を選びました。母の影響でバリバリのキャリアウーマンになると決めていました。薬剤師になろうと思っていましたが、夢は叶わず。祖父の影響で京都に行こうと決めていましたから、薬剤師でなければ、一示都ならではの文化を学びたいと思い、池坊短期大学に入学することになりました。池坊で4年間学ぶ当時、鹿児島の種子島から女の子が京都の短大に入学するというのは珍しく、両親には随分苦労を掛けると思いましたので、「とにかく何でも学びたい」と思い、かなり真面目に勉強しました。しかし、私は服飾だけは苦手で、洋裁も和裁も上手くできず、友達に頼んで仕上げてもらっているような学生でした。この時はまだはつきり自分でも気づいていなかったのですが、私は不器用なのです。短大なので2年で卒業なのですが、もう少し勉強を続けたくて、もう2年間、池坊文化学院を経て池坊中央研修科を卒業しました。また、せつかく家元がいらつしやる京都にいるのですから、種子島に帰る時には華道教室や茶道教室が開けるようにと思い、学校以外にも茶道と華道の先生につき、教授免許を頂けるまでになりました。
社員教育でも広告でも、 一番楽なのは丸ごとアウトソーシングすることでしょう。しかし、当社ではほとんど全てを自分達でやるようにしています広告を作る時に一番大切なことは当社の想いをしっかりと伝えることです。そうやって、広告をしていると、ダンデイハウスに合ったお客様、ダンデイハウスを良いと思って下さるお客様が来店されます。人から人へ何かを伝える時、70%しか伝わらず、残りの30%は抜けてしまうと言われています。始めの人でも70%しか伝わらず、また次の人は前の人から聞いた70%、そのまた次の人も70%とぃぅと、この時点ですでに三分の一しか伝わっていないことになりますから、あまり他人には任せたくないのです。教育でも70%しか伝わらないのであれば、やはり自分達で育てなければいけません。
ですから、うちでは社内に教育部を作り、学校も作りました。他にお任せするのではなく、全部自分のところで責任を持って向き合わないとダンデイハウスのエステティシャンらしさは育っていかないでしょう。あるエステティックサロンでは、毎年、エステティックの学校を卒業した人を採用して、学校で教えてもらつた技術をそのままお客様に提供しているサロンもあります。それが悪いことだとは思いませんが、当社はこれまで、商品も技術もお客様に合わせて作ってきました。「坂本様のニキビがよくなるパックはないか」「田中様のお腹をもっと引き締める技術はないものか」「カミソリ負けしやすい高橋様に合った脱毛法はないか」と私達が技術や商品を開発する時にはいつもお客様の顔が鮮明に見えていました。当社のそんなやり方を業界では「メイドインミスパリ」と呼んでいます。学校があることで「メイドインミスパリ」と、呼ばれるのでしょうが、エステティシャンも技術も商品も全ては、当社のサロンに通われるお客様のために作っているのですから、当社のお客様を知る私達でしか作れないものと考えています
正直にお客様や社員の望んでいることをやることが売り上げに繋がっていきます。お客様や社員の望むことをやつていたら、会社は潰れてしまう思っている社長さんもいます。これは、お客様と社員との信頼関係が上手く行っていないのかもしれません。お客様も自分が気に入って通っているサロンがなくなつて喜ぶはずはないし、それは社員も同じです。恐れずに、とにかく聞いてみることです。その後、その望みを今すぐ叶えられるもの、時間がかかるものに振り分け、整理をして、叶えるために何をすべきか皆で考えればいいのです。昔、大阪の天王寺店のカウンセリング室にクーラーがなく、お客様も社員も汗をかいてカウンセリングをしていました。そこで、店長がクーラーを買って欲しいと言いました。私がクーラーを買えるように売上を頑張って上げてと言いましたら、前月600万円の売上が1000万円になりました。そして、30万円のクーラーを買いました。お客様も社員も、そして私も皆ニコニコでした。お客様や社員の望んでいることをシエイプアツプハウスでは目をそむけずにやつてきたつもりです。
シエイプアツプハウスは新入社員研修がエステテイツク業界ではおそらく一番長い。それは、お客様が「一流のエステテイシャンに施術されたい」と望んでいるからです。しかし、このことに掛かる費用は大変なものです。給料を払い、週2日休ませながら、札幌からも鹿児島からも社員を呼び寄せ、ホテルに泊めての研修が続くのです。縁あって入社した社員を一人前にするのは会社の責任です。そして、お金を頂く以上は、お客様に喜んで頂けるよう努力をするのは当たり前のことです。悪いところも自分達でしっかり確認して改善し、自分達で責任を持ってより改善されたサービスを提供していかなければ、お客様に愛され、売上を伸ばしていくことはできません。また、新しいことを無理に取り入れる必要もないと思っています。私達が先取りしたと言われるのは、お客様が望んだことをやってきた結果でしかありません。私達の会社は何でも真剣に必死に取り組むところが特徴でもあり、その姿勢が結果に繋がっていると思います。