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華道教室

私は鹿児島県種子島で生まれました。父は製糖工場に勤務。私は一人っ子でした。私の祖父は物知りで田舎の旦那さんでした。焼酎と読書を好み、地域の人達に尊敬されていて、分からないことは何でも祖父が教えてくれました。幼い私に、昔訪れた京都や奈良の話をよくしてくれたのも祖父です。その影響で、私は小さい頃から京都に憧れていました。また、私の母は若い頃に働きたいと望んでいましたが、祖父が許してくれなかったそうです。そんなこともあって、私は社会に出て働くようにと言われながら育ちました。応援団長だった中高時代私は小さい頃から活発な女の子で、運動も勉強も得意な方でした。中学と高校ではテニス部に所属し、高校ではキャプテンも務め、インターハイの地区予選の決勝まで進出しました。

 

 

運動会では、中学の時も高校の時も応援団長でした。75年、高校卒業後の進学先には憧れの京都を選びました。母の影響でバリバリのキャリアウーマンになると決めていました。薬剤師になろうと思っていましたが、夢は叶わず。祖父の影響で京都に行こうと決めていましたから、薬剤師でなければ、一示都ならではの文化を学びたいと思い、池坊短期大学に入学することになりました。池坊で4年間学ぶ当時、鹿児島の種子島から女の子が京都の短大に入学するというのは珍しく、両親には随分苦労を掛けると思いましたので、「とにかく何でも学びたい」と思い、かなり真面目に勉強しました。しかし、私は服飾だけは苦手で、洋裁も和裁も上手くできず、友達に頼んで仕上げてもらっているような学生でした。この時はまだはつきり自分でも気づいていなかったのですが、私は不器用なのです。短大なので2年で卒業なのですが、もう少し勉強を続けたくて、もう2年間、池坊文化学院を経て池坊中央研修科を卒業しました。また、せつかく家元がいらつしやる京都にいるのですから、種子島に帰る時には華道教室や茶道教室が開けるようにと思い、学校以外にも茶道と華道の先生につき、教授免許を頂けるまでになりました。